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2014.03.30 (Sun)

「オーソドックス」も ジャンルのひとつだと 思えば良い-Free Novel Games

例えば、ホラーは個人の「好き・嫌い」「大丈夫・苦手」という態度がわりとハッキリするジャンルだろう。

だが、「ホラーである」という理由だけで「ダメだ」とか「面白くない」などと評価されることはない。ジャンルは作品の方向性を示す指針であり、それ自体で作品の出来を決定するものではないからである。

しかし、「オーソドックス」と呼ばれる作品はこの限りではなく、「オーソドックスだから」駄作である、という烙印を押されることも少なくない。「オーソドックス」は、どちらかといえば作品の出来に係わるものであると考えられているように見える。


とはいえ、そもそもこの「オーソドックス」とは、NScripter や Livemaker の初期設定そのままといったような作品の様相のことなのか、あるいは、使用頻度・遭遇率の高い人気素材サイトの背景素材・楽曲素材を多用しているセンスのことなのか、または、ありきたりな手垢に塗れた物語のパターンのことなのか? それらのすべてなのか?

ひとくちに「オーソドックス」といっても、そのことばが指し示す要素は作品によってさまざま・まちまちなものであるはずなのに、「オーソドックス」のひとことで括ってしまうと、どこかぼんやりとした(個々人で変わる)イメージになってしまう感がある。



この「オーソドックス」の扱いにどうもスッキリしないという人は、「オーソドックス」をホラーとおなじ「ジャンルのひとつ」だと捉えてみると良いのではないか。

作品の出来や評価に直結しない、個人の好みの範疇の事柄であると考えると、世間の「オーソドックスを許せる・許せない」という対応の仕方もそれほど間違いというわけではなくなるし、理解もしやすい。

わたし自身、「オーソドックスでも良いじゃない!」という意見を「だってワタシの好きなジャンルだから!」と意訳することで、スッキリと合点がいった。きっと、彼・彼女らは「オーソドックス」そのものに強く共感しているのだろう。




ちなみに、わたしは「(没個性的といった意味での)オーソドックスと呼ばれる作品にも、制作者ごとの個性がかならず表れる」という主張には共感しない。

Erich Seligmann Fromm はその著書『The Art of Loving』で「愛は技術である」と説いたそうだが、個性もまたおなじように「後天的に獲得するスキル」であると考えるからである。

「ただそこにある」というだけでは、それはせいぜい「個体差」くらいの弱い特性でしかないし、「ただそこにあるだけで価値がある」という『世界にひとつだけの花』的な価値観も感化できるものではない。

「オーソドックス」を積極的に許容できる人々は、先進的で開かれたモノの見方をしているのかもしれないが、ただ「畏怖の念すら抱くような才能」「嫉妬に狂いそうになるほどの才能」に出会ったことがないだけなのではないかとも思えてくる。




それにしても「オーソドックス(な物語)」とは、制作者にとってはハードルが低く、プレイヤーにとってはハードルの高いものではないか。

Free Novel Game 制作の初心者は、よほど研究したり、コダワリを持っていたりでもしない限り、世間に広く流布されている(からこそ自らが触れる機会も多い)物語のパターンをロールモデルとするのが自然だろう。

しかし、プレイヤーにしてみれば、その数え切れないくらい繰り返されてきた選択は、すでに見慣れ、見飽きたものであり、結果、制作者とプレイヤーのあいだに、なかなか埋まりえないギャップを生むことになるのだ。

「オーソドックス」が倦厭される理由は、こういうところにもあるのではないだろうか。



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